多様性の受容はキラキラでも美しくもない。どっちかと言うと不快なものです

先日の出来事。

京都から上りののぞみに乗って座席に座り、お弁当を出そうとしたら、もめているやり取りが聞こえてきた。やはり京都から乗ってきた人(私より年上の女性)が「そこは私の席です」と言っている。
 
「そこ」が私の後ろの席だったのと、既に座っているのが外国から来た男女2人連れみたいで「自分たちの座席番号はこれで合っている」と英語で主張しているので、少し助け舟を出す。
 
「のぞみ何号の切符を持っているの?」と聞いてみる。「この電車は●●号だけど」。2人連れの女性の方がスマホで確認し「✕✕号」というので「間違った電車に乗ってる。これは、あなたたちの乗るはずの新幹線より、先か後のやつだと思う」と伝えると、もう片方が「駅で聞いたら、これに乗れと言われた。お金も払っている。自分たちは悪くない」と言う。何か偉そうだし、そこに困っている人がいるのに配慮がないことに驚く。
 
こういう開き直るタイプとやり取りしても無駄なので、席とられちゃった女性には「あそこの空いてる席に座って、車掌さんが来たら事情を話したらどうでしょうか」と伝える。その人は、車掌を呼びに行っていた。
 
しばらくすると車掌が来て、後ろの席の主に男性の方とやり取り。どこから乗ってきたか分からないけれど「自分たちは●ドル払った。これに乗れと言われた。あんんたたち(JR東海が間違えたんだろう。自分たちは悪くない。荷物も●個あるから動きたくない」みたいな感じのことを言っている。全部英語。車掌はしばらくのやり取りの後、別の車両に行ってしまう。
 
結局、後ろの人たち、席移動はしていなかったから、京都から乗ってきたおばさんは、違う席に換えてもらったのかな、と思う。
 
ところで、彼らが席をあけずにすんだのは、おばさん客と車掌がもめごとを避けたくて妥協したためである。すごく日本的だ。察して譲る文化。
 
もしここが本当にルールベースの社会だったら、おばさんは席を譲ってあげないで、車掌にクレームをつけて、もとから座っていた人たちをどかせただろう、ということ。その電車の座席に座る権利を持ってるのは彼女だ。間違えた電車を教えられたという主張は、あくまでも「その人が言ってる」だけで証拠はない。
 
そして席を譲れと言われた人が納得しないなら、彼に間違えた「のぞみ」を教えた人がどこで何を言ったか、セキュリティカメラで確認して訴訟を起こせばいい。もしかしたら、彼の勘違いかもしれない。ドラマならあり得るかもしれないけれど、そんなのはバカバカしいし、訴訟にかかる社会的コストが無駄である。
 
本件から私が引き出した教訓は、多様性の推進って、不愉快なことが多いよね、ってことです。「ふつう、こういう時は」「相手が困っていることに気づいて」「自分が悪くなくても」「状況の把握と解決に協力する」のが当たり前という常識を共有しないのも「多様な価値観」の一種です。それを間近で見るとストレスを感じる。
 
多様性に本当の意味で直面すると、それがキラキラでも明るくもないことが分かります。かくいう私も、論理が通じる人、人の気持ちを察する人、脱いだ靴はそろえる人としか友達付き合いしていないから、同質な人間関係の方が心地いいんだと思います。