米国の男性研究者による「仕事と育児の両立体験談」。少し前にご紹介した"Mama, PhD"の男性版です。


"Mama"を読んだ時は、米国の研究者コミュニティーが働く母親にあまりに厳しいので驚きました。筆者のバイアスかな?と思い、事情を知っていそうな人に話を聞いてみたところ、どうやら書いてある通りのようです。話した相手はアイビーリーグで終身在職権を持つ女性。キャリアとしては「勝ち組」で、お子さんもいます。彼女のポジションでも「米国のアカデミアは母親に厳しい」と感じるなら、それは大変なのだろうと思いました。


では、父親のおかれた状況はどうなのでしょうか。本書の寄稿者たちは全員が子どもを持つ男性たち。やはり、男性にとっても米国の研究者コミュニティーは「子育てしにくい」「両立が難しい」場所なのか。


本書の読後感からは「男性はそんなに大変そうではない」という印象を受けました。いちばんの理由は、妻が主婦の場合がある、ということ。"Mama"と比べて"Papa"では、産後すぐ職場復帰する大変さや、家事育児と仕事の両立の苦労はあまり描かれていません。


前書きにその理由の一端が示されています。筆者によると「何人かの男性研究者は、本書への寄稿を断ってきた。また、いったん原稿を提出したものの『やはり載せたくない』と原稿を引き上げた人もいた」そうです。この事実と本書の読後感を"Mama"の読後感と比べてみると、推測できることがあります。それは、男性研究者の場合「本当に両立困難を感じている人はこういうところに原稿を寄せない」。


深読みすると「男性の方が女性より弱音や愚痴を言いにくい心理状態にある」とか「女性は家庭やキャリアにおける失敗を口にしやすいけれど、男性にとっては難しい」とも言えそうです。


実際、寄稿者の職種を比べてみると、パパとママの違いが際立ってきます。ママの方は、PhDを取得した後、競争の厳しいアカデミアでのキャリアをあきらめて主婦やフリーランスのライターになった人が大半で、中にはPhD取得そのものをあきらめた人もいました。理由は育児との両立困難であることが、エッセイを読んでいくとよく分かります。一方、パパの方は終身在職権を持つ研究者。もしくはテニュアトラックの研究者。つまり、父親たちはPhDホルダーのスタンダードなキャリアを歩んでいるのに対し、母親たちはそうでないことがよく分かるのです。


エッセイの内容も、大きく違います。ママは生まれたばかりの赤ちゃんの育児について、つまり頻繁な授乳と講義の両立の苦労や、新生時育児で眠れない日々、授乳の合間にやるつもりが、なかなか進まない博士論文について書いていました。一方パパたちは、もっと大きくなった子どもの育児について記しています。


また、父親が研究者であることが子どもに好影響を与えていると解釈している人も多いようです。ある生物学者は長期休暇ごとに家族を伴って外国のジャングルへリサーチに出かけています。育児と言っても、女性は「手を動かす」経験を書き、男性は「頭を使う」経験を書いている点が異なります。中には自分と子どもたちの学歴をずらずらっと記している人さえいて、この人にとって育児とは=教育のことみたいです。


フェミニストも多いようです。ある父親は、ジェンダー、特にLGBTを専門にしていました。ある日、息子が女装趣味があることを打ち明けられます。仕事柄、息子の恋愛相手が男性だと聞かされたら拍手をするくらいの心づもりはあったのですが、事態の複雑さに戸惑いを隠せなくなります。息子は異性愛、つまり恋愛対象は女性。息子自身は自分を男性と認識しているため実際の身体とも一致している。服装のみ女性のものを着たいという指向の持ち主だったのです。LGBTとも異なる複雑な息子の性アイデンティティー。これはリベラルな父親でも受け入れるのが難しいようでしたが、徐々に納得して女性ものの服を息子と一緒に買いに行ったそうです。


こんな具合に、父親の育児体験と言っても、自分の知的活動に引きつけたテーマを書いているのが、パパPhDの特徴です。中には妻が出産を控えた状況で、まだ見ぬ我が子に対して、哲学的な悩みを打ち明けるパパのエッセイもありました。これに関しては「そんなことはいいから、妻の手伝いをすればいいのに」と思いましたが。


シングルファザーや障がいを持つ子どもの育児、養子を迎えた経験を記す人も多くいました。最も大変そうな例は、子どもの生活介助のため、自宅を数時間以上空けられない父親研究者。大きな子どもなので妻では手に余り、介助方法が複雑なため人に頼むのは難しい。そのため、昇進に必要な研修を受けに街を出ることすらできない、というのです。これは社会福祉の問題でしょう。養子については、健康な白人の子どもを迎えるために遠く東欧まで迎えに行く人が多い一方、健康なアフリカ系の男の子は引き取り手が少ないといった問題提起もなされています。


「赤ちゃんと私と助けてくれない職場」を書く女性研究者に対し「子どもと僕と社会問題」を書く男性研究者。それは、男女の違いというより、母親と父親それぞれが「口に出しやすい問題」が異なることを示しているようです。


印象的だったのは最後のエッセイ。2人の娘を持つ父親研究者の奮闘ぶりを描いたもので、要約するとこんな内容です。


講義の合間にカフェでちょっと一休みしていると、担当している大学院生から「至急、相談に乗って欲しい」との連絡が。続いて「子どもが熱を出したから迎えに来てほしい」という連絡も。妻は1日中抜けられない会議のため、自分が行かねば!歩きだして、学部長と会う約束だったことを思い出す。講義を休みにしてオフィスに戻り、学部長と大学院生にお詫びメールを出した後、すぐ娘を迎えに行き、15分後には一緒に自宅でテレビを見てくつろぐ。夜になり、家族皆に食事をさせ、寝つかせた後、大学院生にはメールでフォロー、学部長にミーティングの再設定を頼む。ペーパーを採点してウェブ経由で結果をアップロード。


大学の研究者は、子どもが病気と言われたら、真昼間でも帰れる。授業を休講にしたら、学生が喜ぶだけ。誰も困らない。でも、その代わり、夜、埋め合わせをする。会社員のようには拘束されないけれど、講義をして学生の指導をして気の進まない会議に出て、夜、家族が寝た後で論文を書いて…全てやっていると、フルタイムよりずっとたくさん働かなくてはならない。


こういった状況がコミカルに描かれた後、いつか娘が結婚して家を出て行く時、お父さんは頑張っていたことを、きっと分かってくれるだろう。他の父親のようにゴルフコースにいた(接待していた)わけでなく、子どもが必要とする時に家にいることができるのは貴重なことで、そのために、下らない教授会も、論文につけられたいじわるな査読コメントも受け入れようじゃないか。

これはきっと、うちの夫も同じように感じているんだろうな、と思いました。