新聞記事を見て惹かれた「ハーブ&ドロシー」を夫と見てきた。


リアルに幸福な老夫婦を見たい、と期待したところ、期待通りの映画だった。ニューヨークに住む現代美術コレクターの老夫婦を描いたドキュメンタリーだ。2人は現代美術を熱心に買い集め、数十年でその数は数千点に達したという。その業界では伝説の夫婦のようだ。


今や70代後半の夫妻は典型的なミドルクラスである。現役時代、夫のハーブは郵便局で郵便物仕分け人を、妻のドロシーは図書館司書をしてきた。ドロシーは修士号を取ったというから、当時の女性としては高学歴キャリア志向だったのだろう。ハーブの両親は東欧からの移民で子ども時代は食べるのがやっとの生活だったという。映画の中で専門家がいわく、この夫妻の所得水準でこれほどのコレクションを築いた人を今まで見たことがない、と。


夫妻は精力的にアーティストのもとを訪れ、作品をくまなく見た後に、予算の許す範囲でアパートの中に入る大きさのものをどんどん買っていく。私は現代美術には全く疎いので、映画に出てくる作家たちの名を知らなかったけれど、見る人が見れば、すごい人たちなのだろう。


最後には、買い集めた作品が夫妻の狭いアパートに入りきらなくなって、ナショナルギャラリーに寄贈することになる。


おそらくワンベッドルームと思われるアパートに引っ越し用トラック5台分もの作品がぎゅうぎゅう詰めになっていたそうだ。夫妻に子どもはなく、アート収集優先の暮らしだったから、家には文字通りベッドとキッチンしかない。2人はいつも小さなキッチンテーブルに座っているし、電話もテレビも一昔前の製品だ。まるで倉庫の中で暮らしているような感じで、快適な生活にはほど遠い。


夫妻が買い集めたアートの中には、後に価格が大きく上がったものもある。しかし、彼らは一度買ったものは決して売らない。他の美術館からもコレクションを売ってほしいという申し出は多かったが、それを断ってナショナルギャラリーに寄贈したのは、ここは規約に作品を転売しない、つまり永久保存してくれるからだ。


ふたりがアートを選ぶ時の基準は「好きかどうか」であり「独創的かどうか」。有名になった夫妻のもとには、多くの作品が送られてきたようだが、それらは皆、送り返しているそうだ。


ひたすらアートが好きで、好きだから好きなモノを可能な範囲で手元に置きたい、ただそれだけ。純粋な動機に基づき一貫した行動をとる夫妻の姿は、業界知識皆無の私のような者の心にも響く。およそ社会的な行動のほとんどは、誰かから評価され、承認され、高い値段をつけられることを無意識的に期待している。初めは好きでやっていたことでも、そこに市場が形成されたら、利得を得たいという欲求から逃れるのは難しい。だからこそ、「ただ好き」という価値観を持ち続けられることが一番幸せであり、長期的な価値につながるということを実感する。


考えてみると子どもが生まれて以来、夫と映画を見に行くのは初めて。それにふさわしい良いものを見た。