最近、ある宗教の布教活動をしている。


育児教だ。


もちろん、相手を選んでおこなう。たとえて言えば、教会を見学に来た人(妊婦)とか、教会に通うってどんな感じですかとたずねる人(子どもに興味を持ってる若い人)に対して、布教する。興味を持たない人には、私が信者だってことは言わない。


「大変だけど、楽しいですよ」とか「価値観が変わりますよ」とか「高校の時、好きな人がいたでしょう。目が合ったりすると嬉しかったでしょう。そのエキサイティングな感じが毎日続くんだよ」とか。


多くは、自分が若い時に言われてきたことで、ああ、みんな同じことを感じるのだなあとおかしい。


子どもと暮らすようになるまで、うれしいことは、大雑把にいって2つに分かれていた。1)消費したとき、2)自分がホメられたとき。


子どもはこのどちらも満たさない。モノを買ってあげることはするが、買ってくれるわけじゃない。褒めてあげるけれど、赤ん坊のうちは、こちらを褒めてはくれない。


直接、自分に何か良いことが起きるわけではないけれど、うれしさはより直接的というか、皮膚感覚に近いところで感じるのが不思議だ。


これまで、こういう感情は「母性」とか呼ばれていて、女性向けの(当たり前かもしれないが、長年、おじさん文化の中で働いてきた私から見ると、それは、“女性向け”としか言いようがないカテゴリだ)育児雑誌に色々と書かれている。


「赤ちゃんの素晴らしさ」「こんなに自分を必要としてくれる存在に出会えるなんて」・・・云々。


こうした、ピンク色のぽわわわーんとした、極めて女性的な表現に馴染めず、何か違う、何か違うなあ。と感じてきたが、最近、読み返した『負け犬の遠吠え』に「育児教」という言い回しを見つけた。なるほどその通り。これは、宗教的というのがふさわしい。