ってご存知ですか。


不純物をたくさん含んだ銑鉄を、溶かして、質の良い鉄を作るための炉で、溶かした鉄は大砲などを作るのに使われたそうです。


詳しい説明はここにありますが、夏休みにたまたま立ち寄った韮山で、これを見る機会がありました。


反射炉が作られた経緯について、以下は上記サイトとパンフレットからの要約です。


1840年アヘン戦争などで、江戸幕府は欧米による植民地化の脅威を感じていました。当時、伊豆の代官で江戸湾の守備責任者だったのが江川英龍。彼は幕府の許可を得て、自宅に小さな反射炉を作ります。


その成果を見て、ペリー来航の1853年、伊豆下田に反射炉が作られました。これは翌年、韮山に移築されます。


竣工から3年半後、1857年に完成したこの反射炉で、数百門の大砲が作られたそうです。しかし、英龍自身はそれを見ることなく1855年に53歳で亡くなっています。反射炉1864年には使用中止となり、その後、明治政府のもと、陸軍省へ、大正時代には内務省、昭和に入ると文部省に移管されました。




要約おわり。




パンフレットに書かれた説明を読み、反射炉の実物を見ているとため息が出てきました。英龍が当時感じたように、このままでは日本の地位があやうい、何かしたいと考える人は今も大勢いるでしょう。そして実際、多くの人が国のため、あるいは社会のために何かをしようとしています。私も分野によっては、危機感を感じたり、自分も何かしたいと思ったり、実際にやることがあります。


仮にその成果を目にすることができなかったとしても、死後、形に残すことができた英龍は幸せだった、人は生きているうちに、その成果を目にできるか否かを問わず、何事かを成し遂げるため努力すべきだ・・・といった解釈も可能でしょう。例えば40年くらい前なら、理想のため、革命の礎となるべきだ、と多くの若者が思ったんじゃないでしょうか。


私が感じたのは、そういう前向きな情熱ではなく、なんともむなしいなあということでした。太宰治の「トカトントン」です。


「欧米諸国の植民地にならない」という英龍が目指したものは、100年以上もあとになり、多大な犠牲を払って戦争に負け、経済復興してはじめて到達したからです。今も日本は欧米の言いなりじゃん、と思う人もいるかもしれないですが、まあ、それはさておき。


個人の非常な努力と、10年単位で見れば素晴らしい達成が、100年後に振り返ってみると、産業“遺産”になってしまう。そして、当初目指したものは、努力した当人の想像だにしない出来事ゆえに達成されていたりする。


大抵の人は、がんばっても反射炉を作ることすらできない。でも、がんばってどこか高みに到達したと思っても、それは、結局、反射炉なのです。


ここのところ不況で仕事がうまくいかない人が増えているはずですが、反射炉のことを思うと、あんまり気にしなくていいのではと思えてきます。10年単位でみれば、出世で人に抜かされて嫌かもしれませんが、今、勝ってるつもりの人だって、しょせん、反射炉すら、作れませんから。