いまも日本では、出産を機に7割の女性が仕事を辞める。


2人目を妊娠しながら会社勤めを続けている私は、だから、日本の女性労働者の中では少数派だ。


こうなった理由は学生時代にきちんとした「キャリア計画」があったためではない。確かに高校生の頃は「男性に頼らなくても食べていけるように、将来は経済的に自立したい」と思っていたけれど、どんな仕事をしてそれを実現するか、具体案は全くなかった。


法学部に進んだものの、司法試験の勉強は大学2年の時に予備校にちょっと通っただけで投げ出してしまい、その後は「卒業後は会社で働くのか。嫌だな」と漠然と考えるのみ。バイトですら、サボってしまうような勤労意欲に乏しい学生だった。


働くことに関して「根性なし」だった私が、37歳の育児真っ盛りの今まで働き続けることができたのは、ひとえに仕事と育児の両立をしやすい職場環境と配偶者に恵まれたおかげだ。職場環境と配偶者に関しては、これまで色んなところで書いたり話したりしてきた。


最近になって、そういう職を得ることが出来たのは大学で得た教育のおかげだな、と気づいた。具体的にはゼミの先生のおかげだ。ただし先生は就活のノウハウなんてひとつも教えてくれなかった。


私が大学3〜4年で所属したのは刑事政策のゼミ。指導教官の先生はすごくアヴァンギャルドな人で、講義やゼミに裁判や事件で社会を騒がせた人やその弁護にあたった人をゲストスピーカーとして招いた。府中刑務所も見学させてもらった。


「犯罪は社会の歪みを映す鏡」、「日本の社会文化構造が数々の犯罪を引き起こした」という先生の主張は、一般論としては「なるほど」ですむけれど、個別具体的な事件に当てはめると、かなり過激にうつる。ある時はテレビ番組での発言が問題視されて視聴者から大学に抗議の電話がきた。学長に「もうテレビに出るな」と言われたそうだが、もちろん、そんな忠告は無視していた。


徹底して弱者の視点に立って日本の権力構造を批判する先生の話は、時として私たち学生にもいきすぎに見えた。「先生、また言ってるね…」と学生同士で話したことも少なくない。ただ、信念を曲げない先生のおかげで、マスコミ関係者も会ったことのない、話題の渦中の人に直に話を聞いたり、その実態を垣間見る機会を得た。ゼミで先生に聞いた話の一部を入社試験の作文に書いて、私は今の会社に内定をもらったのだから。


実は作文の冒頭に書いたのは「今のマスコミは終わっている」という、かなり失礼な一文だ。作文の前に取り組んだペーパーテストが全くできなかったので(コンピュータの知識を問うもの)「落ちたな」と思った私は「せっかく作文を読んでもらう機会があるので、世の中の言論を握っているマスコミの人にぜひ知ってもらいたいことを書こう」と考えた。この時、作文の目的は「入社すること」ではなく「マスコミの人にぜひ知ってほしいこと」を書く、という風に変化した。


結果的にはこれが奏功した。受かろうと思わず、マスコミ=権力側の人に伝えたいことを精魂こめて書いたためか、全く期待していなかったのに筆記試験に通って面接に進んだ。面接でも本当に思っていることしか言わなかった/言えなかったのだけれど、受かってしまって今に至る。


細かい不満はあれど、私が今の会社で働いていてよかった、と感じるのは「これは正しい」とか「こうあるべきだ」という主張に耳を傾けてくれる人が少なからずいることだ。学生時代には経済紙・誌をろくに読んでいなかったし、経済=金儲け=悪どいこと…という狭い発想だった私が、どうにかこうにか13年間も働き続けることができた理由。それは、上司や先輩や同僚の中に正論が通じる人が少なからずいるおかげだ。


そして正論が通じる人たちは、「子どもを持つ女性社員」というものを、大抵の場合、フェアに評価してくれる。このことは、社内だけでなく取材先など仕事で関わる社外の人にも当てはまる。


要するに、私の場合、新卒時点でのマッチングが上手くいった。それは、自分にとって大事な価値観を、正面からぶつけることを恐れなかったためだろう。就職活動という、食べるために大いなる妥協を迫る一大装置の中にあっても、譲るべきでないことを譲らない勇気をくれたのは、ゼミの先生が一貫して見せてくれた姿勢だった。どれだけ批判を浴びても、上司から指摘を受けても、自分が正しいと思うことは曲げなかった先生の、いささか不器用な生き方をつぶさに見られたことが、私が一橋大学で得た最大の財産のひとつだ。


大学を含め、学校の先生というものは正論を言うことが多い。「正しいと思うことをしよう」とか「弱い者の味方をしよう」とか。これらを一般論として聞く時、反対する人は誰もいない。ただ、個別具体的な案件を前にした時、これを実践できる先生はあまりに少ない。


学生がきちんと就職して働き続け、経済的に自立するためには、キャリア教育や専門教育も確かに大事だ。でももっと大切なのは、大学で教えている人が「正しく、進歩的に生きる姿」を身を持って見せることだろう。それは時に保守的で近視眼的な実社会とコンフリクトを生む。


でも、短期的にはもとが取れなくても、長期的に見て価値を生む=公共性が高いからこそ、大学には多額の税金が投入されているのだ。15〜16年経った今、自分が受けた大学教育の価値をあらためて感じる。納税者や親の立場となった今は、そういう価値を提供できる人に教壇に立ってほしいと思う。