バージニア工科大学の銃乱射事件から4日。


事件当日に、ミシガン大学長から学生全員宛にメールが回ってきた。内容はカウンセラーの紹介など。大きなニュースになる出来事があると、トップがメッセージを発するのは暗黙のルールだ。


2日前には同僚から"Orange and Maroon Effect" を知らせるメールが転送されてきた。元の差出人はバージニア工科大学の同窓会。今日から月曜まで、同大学のスクールカラーのオレンジと海老茶色を身に着けて、被害者への哀悼と大学の連帯を示そう、というのだ。ショックを受けてもすぐに「連帯」と言い出すところがアメリカらしい。


日本の家族などもメールでこの件について触れていたので、きっと日本でも大きく報道されているのだろう。


もし私が東京にいたら、何か記事を書こうとしたかもしれない。「銃社会アメリカ」とか「移民社会の光と影」といった使い古されたフレーズをちりばめながら。でも実際にアメリカで暮らしていると、そういう陳腐な表現では実感がわかない。


実を言うと私の周りは至って平穏で何も変わらない。事件当日、クラスメートと話したら「韓国系の学生だって聞いたけど、家にテレビがないから詳しいことは分からない」と冷静だった。犯人と同じアジア系であることを理由に、私自身が不快な思いをすることもない。近所の韓国料理店が嫌がらせをされたという話も聞かない。


ここ数日、周囲の人が真剣に語っていたのは、大学で働く講師の労働条件改善に関する問題と、大学当局の法律担当者に妙なメールを送り続けていたとされる女性ストーカーに関する情報だ。これらは安全と安心に関わる身近な問題だ。


私たちは日ごろ、ニュースを知るためにテレビを観たり新聞や雑誌やインターネットの記事を読んでいるつもりになっている。でも本当は、物語を共有するためにメディアに接しているのではないか。被害者でもその家族や友人でもない人々が「大変だ」「問題だ」「信じられない」と言うのを見ると、本音のところでは他人の悲劇を物語として消費しているように見える。私自身がメディアで働いているので、こんなことを言うのは天に唾するようなものだが、他人に起きた悲劇で安易な物語を紡いでみせるのはとても失礼なことだと感じる。