夜中に読み始め、3ページ読んだところで今晩は寝ないことにした。


尊敬する知人に勧められたので期待して読み始めた。期待を大きく上回っていた。内容はタイトルからおよそ想像がつくだろう。アメリカに奴隷制があった1800年代、ノースカロライナで生まれ育った著者の体験を記している。


奴隷制については「アンクル・トムの小屋」とリンカーン、そして小中学校の時に習った黒人霊歌にまつわるエピソードくらいしか知らなかった。そのため本書が記す、奴隷制がもたらす白人家庭における人心荒廃については、想像したこともなかった。それは、本書によれば、こういうことだ。


白人の奴隷所有者(男性)は、所有する女性の奴隷との間に何人もの子どもをもうける。子どもの肌の色が薄いため、父親が奴隷でないことは誰に目にも明らかだが、それは公然の秘密となる。女主人は嫉妬と猜疑心の塊になり、それは当然、奴隷の扱いにマイナスに作用する…。


著者が逃亡中に隠れ家で送った生活は、アンネ・フランクを思い起こさせる。白人の中にも助けてくれる人がおり、黒人の中にも仲間を売る人がいる。思い出すのは「そこに僕らは居合わせた」(みすず書房)に描かれる、ユダヤ人を助けようとするドイツ人のことだ。そして収容所でナチスに協力したユダヤ人のこと。極限状況で善人になる人と悪人になる人がいる。


この本が素晴らしいのは、途方もない歴史的な悪を描きながら、そこにある普遍的なもの、現在に通じるものを描き出すことだ。著者は普遍性など意識しなかったはずから、そういうものを感じるのは、ひとえに訳者の熱意と正義感による。


戦略系コンサルティング会社で働く訳者は、プロの翻訳家やアメリカ史の専門家ではない。でも、というよりだからこそ、自身の仕事と今の日本に生きる女の子たちの関係性を見て見ぬふりができずに、英語を読むのに不自由を感じる大多数の日本の女の子に、自由とは与えられるものではなく勝ち取るものだ、と伝えようとする誠実さに胸を打たれる。


目を覆いたくなるようなひどい出来事を越え、著者は最後にこう記す。「読者よ、わたしの物語は自由で終わる。普通の物語のように、結婚が結末ではない。わたしと子どもたちはいまや自由なのだ!」。ここ、泣けて泣けて仕方なかったです。キャリア教育とかまだるっこしいことをする前に、中高生にこの本を読ませたらいいです。


買おうかな?と思った方は、まずどこかで、P293だけでも読んでみてください。