むしろ、そういうことが可能になったらいいよね、とポジティブに受け止めた。


夏休み6日目、娘(もうすぐ2歳)と24時間一緒にいるけれど、全然飽きない。いわゆる「魔の2歳児」のだだこねはしょっちゅうで、欲しいものを手に入れるまで泣きわめくし、外出先でバギーに乗りたがらず炎天下、抱っこして歩くこともしばしば。だけど、それも含めて面白い。


この夏、夫と息子が二人旅に出るので、私と娘がどう過ごすか考えた。そもそも電車や飛行機で長時間おとなしくしていられない彼女と楽しく過ごすには「遠くに行かない」のが良いと判断し、この夏は遠出をあきらめ都心のホテルに1泊した。大正解だった。


それ以外の日は家にいて、動物園や近所の水場や公園で遊んだ。娘が寝ている約13時間(夜11時間、昼2時間の割合)から自分の睡眠時間や家事時間を除くと、自由時間は1日3時間くらいだろうか。


この生活は大変などころか楽しい。日々、違う言語を覚えていく1歳児を見て、愛情表現も活発なこの人と、できればもっと長いことずっと一緒にいたいと思う。同じことを、春に旅行した時も感じたし、たまの休みに1週間とか10日間とか、べったり一緒にいると、旅行や外出の刺激より、娘の人となりがよく見えることが印象に残る。例えるなら、ふだん一緒に仕事をしている同僚と、初めて朝まで飲んだら「彼または彼女がどんな人がよく分かった」みたいな気分。


裏を返せばそれくらい、ふだん一緒にいられる時間が少ないということだ。基本的にお迎えに行き夕食を共にするようにして、夜間の仕事は週1〜2回に抑えているけれど、フルタイム就労というのは、それくらい親子の時間を限定的にする。


自分で選んだことだし、夫婦で話し合って納得して決めたことだけれど、子ども2人ともゼロ歳で復帰し、近所の保育園に入れずタクシー送迎したり、いったん迎えに行った後でシッターさんに預けて再出社したり、海外出張から帰ったらゼロ歳児から忘れられていたという経験を、他の働く親がすべきとは全く思わない。むしろ、そんなことはしなくても「仕事と育児の両立」ができたほうが良い。


仕事を持ち帰って在宅で作業できたり、夫が家事育児を当たり前のこととしてシェアしたり、子どもが発熱した時は当たり前のように「帰ってあげて」と言ってくれる職場だからこそ、短めの育休で復帰できたし面白い仕事にも関われた。それでもやっぱり、自分が経験したようなことは、今の保育園事情と就労条件を鑑みた最適戦略ではあっても、皆が目指すべき理想とは思わない。


言い換えれば、1歳や2歳や3歳のどの季節でも、入りたい保育園に入ることができ、職場では育児休業中の人員補充がされて同僚にしわ寄せがいかず、たとえいったん仕事を辞めても、数年後に同じような条件で再就職できるような環境なら、私はゼロ歳児復帰をしなかっただろう。「育休3年」と聞いて私が連想したのは、そういう理想的な社会だった。もちろん、そういう社会で育休を取ったりいったん仕事を辞めるのは父親の権利でもあることは言うまでもない。


今の日本社会は全体を見ればまだまだ遅れていて、女性は、本人の能力や希望や家族の状況に関わらず家庭に入るべきと考えるジュラ紀白亜紀を生きる人が発言力を持っている。そういう人に迫害されている女性たちは「育休3年」と聞いて「自分が家庭に閉じ込められる」と思ったのかもしれない。


でも、すでに「働くことへの自由」を手に入れた者からすると「育休3年」は、「家族への自由」を目指すものに思えた。要するに、時短か休業か労働市場を離れるかを問わず、また両親の性別を問わず、最初の3年くらいは子ども優先にしても仕事で不利にならない社会だ。