静岡・登呂遺跡に見る戦後民主主義への希望

 

 稲作で特徴づけられる弥生時代のことを、子どもの頃、社会科の時間に習った。教科書に記されていた「登呂遺跡」がJR静岡駅からバスで10分ほどのところにある。落ち着いた住宅地の中にひらけた場所が遺跡公園になっていて、弥生時代の復元住居と水田が広がる。

 

 現代と紀元前3世紀~後3世紀が共存している。休日朝だったので、犬の散歩をする人や、体操する人、集まっておしゃべりする人たちがあちこちにいて、遺跡を特に珍しいと思っていない様子から地元の人だと分かる。一方、私のような観光客は、写真を撮っているからそれとわかる。

 

 

 バス停から遺跡を過ぎて歩くと、静岡市立登呂博物館がある。ここで伝えるストーリーが興味深い。お米作りは中国大陸の長江下流から日本列島に伝わったとされること、伝播ルートについては3つの仮説があること等が、入り口の解説ビデオで分かる。

 

 ここまでは教科書の範囲だが、大事なのは登呂遺跡の発見と発掘が戦後すぐ、昭和22年頃に行われたことだ。この遺跡の発見は敗戦で自信を失っていた日本人に希望を与えた…といった話で締めくくられている。

 

 多少の違和感を覚えつつ博物館内を進むと、当時、発掘に関わった人々の証言映像を集めたコーナーがあった。当時、高校生だった人々は一様に、軍部支配の時代から平和の時代への変化を感じたそうだ。後者を牽引するのは文化と科学技術であり、遺跡発掘により歴史を科学的に検証することは、時代の求めるものに合致していた。

 

 

 発掘には東京から来た研究者や大学生に桑手、県内高校生たちが参加して土を掘って運んだ。戦争が終わったからズボンをはかなくていい、と喜び、母親の着物を作り直したスカートをはいて参加したという当時の女学生の話が印象に残っている。

 

 戦後すぐ、常に空腹だった時期に、具の少ないすいとんを食べながら高校生たちを発掘に従事させたのは、戦後民主主義という新しい希望だったのかもしれない。やや突き放して見れば、右から左へと方向が変わっただけで、時代の流れに沿って生きた、ということかもしれない。

 

 当時、明治大学生だった大塚初重さん(考古学者・後に明治大学教授)のインタビューは特に面白い。やはり発掘に参加していた研究者の杉原壮介さんが、鼻をきかせてマッコリを作るコミュニティがあることを察知、学生たちにお金を渡して買いに行かせ、夜な夜な飲み会をしていたという。杉原さんは自宅の美術品を売却して発掘に参加する資金を作っていたそうだ。

 

 戦争で多くを失った後に若い人たちが70年前に考えていたことが分かる、という意味で遺跡とは別な面白さを感じる展示である。