Mama, Ph.D.: Women Write About Motherhood and Academic Life作者: Elrena Evans,Caroline Grant出版社/メーカー: Rutgers Univ Pr発売日: 2008/07/30メディア: ペーパーバック クリック: 31回この商品を含むブログ (1件) を見る


タイトルは「ママ博士」とでも訳すのでしょうか。母親業とアカデミアでのキャリアを両立するのが、いかに難しいか記した本。


日本と共通する問題もある一方、日本の制度の方がいいな、と思う面もあり、色々なことに気づかされます。もちろん、これから米国の大学に留学して学位を取って研究者になる人にも役立ちます。

アカデミアの仕事=大学の“先生”ではない:前提として


以下、アカデミアの方には自明なので飛ばしてください。


日本で「大学の先生」というと「教育者」のイメージを持つ人が多いと思います。また、実業界で「上がり」になった人が、若い人に好きなことを喋って余生を送るためのポジションだと誤解されることも多いです。


米国では(というか、日本でも本来、トップ校では)「研究者>教育者」。だから、講義をして準備をして、テストやレポートの採点して成績つけて…という「教える仕事」をしながらも「研究」をしなくちゃいけません。ここで言う研究は分野によって違いますが、査読付きの学術誌に論文を載せることだったり、ある種の専門書を書くことだったりします。この仕事をきちんとしないと、本当にクビになります。


本と言っても、ベストセラー本を書くことや、マスコミに出て「大学の先生」として話すことは評価の対象にはなりません。


そういう前提で、なぜ、育児と大学の仕事の両立が難しいのか、記したのが本書です。当然ですが、この種の身辺雑記的なエッセイを書いても、彼女たちの“キャリア上の業績”にはなりません。


この辺の話に興味がある人は『工学部ヒラノ教授』(新潮社)お勧めです。大学の先生の仕事が何なのか楽しく理解できます。

“安定して食える”までのハードル:日本との共通点も


米国のアカデミアでは、大きく3つのハードルがあります。1)大学院生時代(PhDを取るまで)、2)安定につながる職を得るまで、3)終身雇用になるまで。


男性の場合、3)に到達しある程度、仕事が落ち着いてから子どもを持つという選択肢がありますが、女性の場合「待ちすぎる」と不妊リスクが高くなるため「どのタイミングで産むか」は大きな問題です。


1)の時点で産むのが、肉体的にはベストですが、赤ちゃんの世話をしながら博士号を取るのは大変です。収入が少ない大学院生には育児サービスの利用コストが重くなります。米国のまともな保育園をフルタイムで利用すると、大卒初任給以上のお金が吹っ飛ぶためです。本書で多くの人が記しているのは「子どもが寝ている間に論文を読んだり書いたりしようと思っていたが、いざ、生まれてみたらそんな時間はないことに気づいた」。


同じ体験をした人は、日本のビジネスパーソンにもたくさんいるでしょう。


2)もまた、大きなハードルとなります。特に夫婦共にアカデミアで仕事を探している場合、遠距離結婚になったり、片方しか良い仕事が見つからなかったりして、キャリアと家族で同居することの両立という問題に直面します。


これまた、日本で全国転勤がある企業に勤めるカップルが直面するのと同じ問題ですね。


3)に関する問題は、本書の「あんこ」なので後に詳述します。

ミルク漏れ問題:産後休暇がないと、どうなるか


本書で多くの母親研究者が記していたのが「母乳が沁み出てきて困る」という話でした。これは、日本ではあまり聞かない悩みかもしれません。生後数週間は2時間、3時間ごとに母乳をあげることが多いです。少しずつ頻繁に飲む赤ちゃんの場合は、30分とか1時間ごとにあげることもあります。日本では法律で産後6週間未満の母親を就労させてはいけない決まりがあるため、多くの会社づとめの人は、ある程度の期間は赤ちゃんと一緒にいることができます。自営やフリーランスの母親の場合は、法律の適用外なので復帰時期を自分で決めることになりますが、ミルク漏れ問題についてあまり耳にしないように思います。


一方、米国の女性研究者たちが置かれた状況は過酷です。学期の途中に出産した場合、代講を頼めないため産後数日で復帰を余儀なくされたり、産後2週間以内に大量のテスト、レポートの採点をしなくてはならなかったり…。産休中は基本的に無給なので、経済的な事情で休めない母親も少なくありません。赤ちゃん連れでオフィスに来て、講義の合間に授乳したり、搾乳したり。一番困るのは、就職活動のため遠くの街に数日間滞在するような場合です。赤ちゃん連れで出かけるのは難しい。かといって、シッターを雇うお金もない。自宅に置いていくと、母乳が溜まって沁み出てきて、就職面接の間にスーツが濡れてしまった困ったという体験談を寄せる人が本書には多くありました。


産休とか育休というものは、実際に使ったことがある人でないと、なぜ必要かピンとこないかもしれませんが、こうした休業制度が機能していないと、どんな問題が生じるか本書によく描かれています。ちなみに、最新号の"Working Mother"誌には、有給の産休制度が整っている企業ランキングが載っています。1位はシスコの26週。2位はドイツ銀行など3社の18週、5位はゴールドマン・サックスモルガンスタンレーなど4社の16週と続きます。


では、米国では企業の方が大学より、キャリアと育児の両立がしやすいのでしょうか? 結論を急ぐ前に本書の「バイアス」について触れておく必要があるでしょう。

働く母問題を率先して語るのはどういう人々か


読み進むうちに、米国の大学で起きている妊婦・母親いじめと呼ぶしかない状況に唖然としました。上司に妊娠を告げたら迷惑そうにされたとか、それじゃあ、職を見つけるのは無理だと言われたとか、大学の育児支援制度について教授会に提案したら「そんなものはいらない」と言われたとか。ああ、日本でもよく聞くような話がたくさん。しかも、いじわる度では日本を上回るような話も多々あります。


前に記した、2)から3)まではおよそ6年。この間に一定の質・量の論文を書かないとクビになるので、プレッシャーが非常に大きいのですが、あまりに職場の雰囲気が悪いことに嫌気がさして、3)に到達したとたん、大学の職を辞めてしまったという母親研究者の体験談もありました。


驚いたので、現地事情に詳しい人に聞いてみたところ、厳しい答えが返ってきました。「それ、どこの大学の話?」。


実は米国でも、いわゆる一流大学(ハーバード、プリンストンスタンフォードetc...)では、立派な託児所を作ったり、子どもがいる若手研究者のキャリアパスを見直すなど、先進的な取り組みをしています。私が子どもを持ちたいと思ったきっかけの一つは、夫の指導教官(女性経済学者)が可愛い2人のお子さんと立派なキャリアの両立をしているのを目の当たりにしたため。能力と努力は並大抵でないと思うのですが、どうも本書で描かれる世界とは違うような…。


要するに、本書で描かれている「ひどい話」と一流大学のサポート体制の差は、一流企業とブラック企業の労働条件の違いと同様ではないか、ということでした。


確かに。前述したWM誌でランキングの上位にきているのは、いずれもグローバルに競争している一流企業ばかりです。一方で、本書に収録されている30篇余りのエッセイ寄稿者の経歴を見ると、この「中の人」の指摘は厳しいけれと当たっているような気もします。また、寄稿者の多くが人文系の研究者ということも、関係しているかもしれません。社会科学・自然科学の研究者を目指す人にとって、米国のアカデミアがそんなに悪いところか?という疑問は残ります。

上手に両立している女性研究者の特徴


前に記したように、寄稿者の雇用主や分野に偏りがあるため、単純に一般化はできません。ただ、本書の中でも、数学を使う研究分野の女性たちのエッセイは「アカデミアで働きながら育児することのメリット」を記す傾向にありました。


ある経済学者は、自分で産むのではなく養子を迎えました。彼女は育児を始める前に転職して、経済学の研究者から、リベラルアーツカレッジの数学教員に職種換えをしました。研究者がエライとされる業界のルールに照らせば、キャリアダウンになりますが「両立しやすいこと、職場の雰囲気が良いこと」を優先させました。学部と交渉して、養子を迎える準備のための休暇制度を作らせたりもしています。彼女は今の職場に満足しているので、経済学者に戻らないかという誘いを断りました。


また、あるエンジニアの女性は「大学院生時代は出産するのにベスト」と言います。この女性は高卒後、数年間の就労経験があるためか、明確な目的を持って工学部修士課程に進んでいます。働きながら大学院生を続け、クラスメートと結婚した際は「2人とも年を取っているから一刻も早く子どもを」と計画。子連れで講義を受けたり、教授と論文の打ち合わせに行ったこともあります。ある男性教授に嫌味とも受け取れることを言われた時は、一瞬考えて良い方向に解釈し「ふむ、ふむ」と答えて受け流しました。細かいことに捕らわれず、夫と協力しながら3児の母となった、この人のエッセイは明快で愚痴っぽいところがありませんでした。


他にも科学者同士のカップルが、サバティカルを利用して子どもに欧州文化を経験させた体験談を通じて、アカデミアで働く母親であることに満足を覚えた、といった前向きなエピソードも入っています。

どうすべきか。解決策は国境・業界超えて同じ


最終ページ近くに記されている解決策は2つです。


1)パートタイムの待遇改善
大学で非常勤講師や客員研究員として働くと、低賃金不安定雇用になります。同一価値労働同一賃金を徹底すれば、夫婦揃って短時間労働を選択することもできるようになり、両立が容易になる、という提案です。これは、日本の大学にも企業にもそのまま当てはまるでしょう。


2)キャリアパスを柔軟に
研究者の場合、継続して論文を書き、自分の専門分野の最新動向に追いつく必要があります。数年休んで仕事に戻るのが難しいのは、常にインプット/アウトプットすべしというプレッシャーが大きいため。この文化を見直そうという提案です。


同じくアカデミアで働く父親たちのエッセイを集めた"Papa PhD"という本もあります。こちらは、母親とは違う問題をあぶり出しているため、読み終えたら感想を書く予定です。